今週、父方の祖母が逝きました。年々弱ってきていましたが、先月から段々と食事を受け付けないようになって、最後は水もとらなくなり、枯れるように、老衰し亡くなりました。同居していた祖母なので、悲しくもあり、しかし、長い人生を全うした祖母へ、あっぱれ、という賞賛のような気持ちもまたあり、死ということへの印象がまた変わったような気がします。
祖母がいよいよ最期の時に近づいてくるとともに、自宅で以前の祖母の部屋の整理なども行いました。といっても、まだ残っているものの多くは、20年前に逝った祖父の持ち物なような気もします。祖母は、祖父亡きあと、寂しさからか、いっそうふさぎ込み、そのうちアルツハイマーを発症しました。そして、祖母の部屋の祖父の持ち物は、20年間生きていたときの状態を保っているようでした。祖父が逝ったことを受け入れられない祖母が、意図的に整理しなかったのかもしれないとも、私は感じています。
祖父は書道家であり、写真が趣味でもありました。祖父母の部屋からは、祖父が撮りためた多くの写真が残されていました。私は、写真について素人で、技術がどうのなどは、よくわかりませんが、とにかく祖父の残した写真、特に祖父が撮影した祖母の写真からは、祖父の、祖母に対する愛情のようなものがひしひしと伝わりました。祖母は、社交的な人ではなかったけれど、祖父がシャッターを切り、形に残した写真上での祖母は、とてもおだやかで、安心して、少し甘えたような、ときにひょうきんな、そんな表情に見えました。無邪気に笑う祖母の写真を見て、レンズ越しにきっと祖父も何か話しながら笑っていたんでしょう。亡くなる前の年に撮影したどこか寂しいような、穏やかな祖母の写真からは、この時は祖父の死期が迫り、別れの時期がせまっているのをお互いに感じていたのかもしれません。祖父の撮影した写真からそのようなことを感じました。
祖父が写した写真の被写体は、祖母、家族、庭の木々など、日常の風景です。家族の誕生日、子ども達、孫達との日々。日常の中にこそ、人生の幸せがある、祖父はそう感じて、そんな日常の風景をとりためたのかな、と思わされます。
心を込めてシャッターを切った写真は、撮影者の人柄を写すものでもあるのかもしれません。祖父と祖母、もうどちらもこの世にはいないけれど、二人が残した写真は、残り続ける、そして、残された私たちに言葉以上のものを訴えかけてくる、そう思うと、写真の魅力って、奥が深いなと感じた次第です。写真って、いいですね。残された写真は、整理して、また時がたって眺めようと思います。